昭和57年9月24日 朝の御理解        【 末永信太郎 】

第68節 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛     抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげ     ても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音     をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をした     り、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。




 昨日、一昨日、ビリグイから久しぶりに長々と手紙が参りました。若先生宛、来ておりましたが。ここで、読んでもらいました中に、大変おかげを頂いておる模様が書いてございます。ね、こちらの記念祭にもあちらの総代さん方が代表で二人参拝をされる。というような事でございましたが。中に、先だってから教会内に大変なまあ、問題が起きたらしい。それも、御信者の中の、いわゆる日本人の御信者が段々でけて参ります中に、その、いわゆる問題が問題になって、手紙の中に書いてございましたが、もう、君子はもう死んだ方がマシというような問題でございましたと書いてあった。

 私も、もう日本人じゃいかん、もうブラジル人の人がどんどん助かりさえすりゃ良いと、私も心に決めさせてもらいましたら、その頃から、ブラジル人の方の参拝が非常に多くなりましたと。特別その、変わった傾向として、今までは日本人の方があちらのブラジル人の方を導いて参って来ておりましたが、最近はブラジル人の方が日本人の方を導いて見えるという傾向が強くなったと書いてあります。

 先だってからは、これは他の州の、えらい遠方のブラジル人の方が参拝をしてみえられて、もうそれこそ、まあ、奇跡的な大変なおかげを頂いて、その方が感動のあまりその地方の新聞に、ビリグイ市にこういう神様がおられるという事を、新聞に掲載された。それから、その地方からどんどん、ブラジル人の方の参拝が増えたと書いてあります。ね、不思議な事ですね。ね。何がおかげになるやらわかりません。それこそ、なら君子さん、まっ、これは家内がそげん心配するなら、主人である末永先生もやっぱり難儀をしたでしょうけれども。

 もう、それこそこういう問題が起こるごたんなら、もう死んだ方がマシというような、んなら問題。まあ、今日の御理解で、それこそ雨風が強かったという事になるのじゃないでしょうか。だから、その辛抱こそ身に徳を受ける修行。そこの修行をし抜いた、腹が決まった。そこから、言うなら急にそのブラジル人達の助かりが増えてきた。いや、ブラジル人の方達が日本人を導いて参って来るような働きも、また他の州に、例えば新聞で宣伝して下さるというような働きまで起こってきたと、こう言うのである。

 ね、してみると、そういう、願っておるのですから。大きなおかげを願っておるのですから。そういう、雨も風もまた、徳を受ける、力を下さる為の神様の御演出であったなと分かる時に、初めて、ああ、あれが親愛だったのという事が分かるわけですよね。合楽の場合は、そういう、もう死ぬ方がマシといったような事柄。もう、言うならあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、真の信者と仰るように。もう、あれもおかげであった。

 ですから、これもまたおかげなのだと。今踏まえておる、難儀と思っておるけれども、これ実際は親愛の現れなのだと分かる時に、もう、あれもこれも、今ここでお礼が言えるという事になる。そういう信心を、今合楽では説かれてありますですね。やっぱり叩かれれば痛いです。または、苦しいです。けれども、有り難い、勿体無いという心が、いわゆる、ね。有り難いのが、まっ、苦しい事が百ならば、有り難いのは百二十という風に、有り難い方を強うなって参りますと、もう、そこに苦しいという事ではない。ただ、有り難い。

 もう、このようにして鍛えて下さる。このようにして力を与えて下さるというお礼の方が強うなって来る。そういう信心を一つ身につけたいですね。昨日、日田の国師さんが参拝してあった。娘さんがこの頃、交通事故に遭って。まあ、自動車も、まあ、これで良う人間が助かったというように破損したんだそうですけれども。まあ、同時に入院して、まあ、おかげで命だけは取り止めたといったような、まあ、まあ、大難に遭ったわけでございますけれども。

 先方の方のその、相手の方との話し合いの時に、一番始めに頭にひらめいたのは、ね、紅白の鏡の餅の一重ねという御理解を頂いた事が、頭にひらめいたと。もう、これだけ、まっ、そのこちら、言うならば何と言うでしょうか。あの、話し合いがこじれると。それこそ、紅白の、まっ、こう、敵同士のようにならなければならない。それを、信心によって紅白の餅の一重ねというようなおかげにならなければならんと思うて、ね、お互い人情を外して話し合いましょうやと。

 ほれで、向こうの両親の丸十八歳の青年だそうです、相手は。ですから、その両親が昨日、自動車で国師さん送って見えて、その向こうの方達の、も一緒にお導きをして、もうこれは大変な難儀な事でございましたけれども、これが相手の方が信心を頂かれるようになって幸せになって頂くならば、こんな事はもう、問題じゃない。ね、紅白の言うならば合戦のような事にならずに、この紅白の、まっ、お鏡餅を重ねるようなおかげにしなければ相済まんと。もう、その事が一番に頭にひらめいて、まっ、こういう話し合い、こうして一緒にお参りが出けたという、お届けが昨日ございました。

 ね、日頃頂いておる教えが、もう、その場でパッとこう、ひらめいて来た。その場で、ね、取るしこ取ってやれてん何てんといったような、今時のその考え方ではなくてです。ね、これを縁に、ね、相手の方達も信心を頂いて下さって、いわば紅白の、あれが、ね、言うなら紅白と言えばめでたいという事でございましょう。ね。お祝いという事になるでしょう。これは有り難いおかげになったのは、ああいう事からであったと。というようなおかげになる事を願っての昨日の参拝でした。

 ね、だから、どういう雨が強い、風が強いと言うても、その雨風の時に、ね、日頃頂いておる教えをパッとこうひらめいて来るような信心を、日頃頂いておきたいですね。もう、そん時には我を忘れてしまっておる。信心はどこにか置いてしまっておるというのではなくて。ね。とっさに、その時に、まっ、雨が強うても、風が強うても。ね、そこに(逃げんで?)済む、または折れんで済むおかげを頂いて、初めて私は、ね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行と仰せられる、私はお徳を受けて行く事になると思うです。ね。

 もう死ぬ方がマシというような修行の時にです。ね。まっ、本当に一生懸命の修行が出けて、結構な修行させて頂いて有り難いと、こう日頃親愛といったようなものが、パッとひらめいて来たら、苦しい、もうそういう問題が問題を産んで行くという事は、問題はそこで無くなって、ね、神様が私ども夫婦に力下さろうとする働き以外にないと、こう悟らしてもらえるような信心を頂いておきたいですね。

 本当に神様が大きなおかげを下さる前には、必ず大きな修行を求めたもうのです。ね。今、ブラジル国にいくつの州があるか知れませんが。その大きな州、大きな州と言うても、それが日本国ぐらいに大きいんだそうですからね。そういう州が、いくつもこうある。それが一つひとつ、ね、合楽理念に基づく助かりの、言うならば手立てともなって行く。そういうおかげが現れておるという事でございます。

 お互い、日々信心生活の中に、ね、雨が吹いたから、風が吹いたからと言うて、折れたり、ね、濡れてしまうといったような事のないおかげを頂きたい。ね、雨が降っても、信心の傘を差したら濡れんで済む。ね、それこそ、風は柳というように、どういう強い風が吹いて参りましても、神様任せの柳のような信心させて頂いとったら折れる事ない。

 ね、それを、こう気張るから折れるような思いをしたり、ね、その傘を差す事を忘れるから、もうそれこそびっしょり濡れなければならんという事になるです。濡れんで済む、折れんで済む。そういう信心こそ、身に徳を受ける修行だと思いますね。どうぞ。